アユ友釣りに魅せられ60年(久慈川アユ産卵床造成・2018年)
1.はじめに
私たちがこどもの頃、箱めがねやヤスを使って小魚を突いたり、泳いだりと、川は楽しい遊び場でした。成長と共に自然や郷土を愛する心が育まれ、生活の中で水辺が如何に大切なものであるかを知ったものです。水辺によせる思いが高ければ高いほど、美しい自然は保たれます。ここ茨城には久慈川や那珂川のように大きな川もあれば、小さな川も沢山あり、水辺で遊ぶ環境には事欠きません。賑やかに遊ぶ子どもたちが増えることを願っています。

2.水辺は科学がいっぱい
水辺の遊びは科学がいっぱい、いろいろな生き物がいてワクワクします。魚が大好きな子は、釣を一心になって覚えます。釣りでいろいろな魚を捕まえると、魚の名前ばかりでなく習性を覚え、水の流れや水温の関係で釣果が分るようになります。一方、川原や土手には植物がいっぱい、中でも食べられるノビルやスカンポを良く採ったものです。勉強という意識は無くても、楽しい遊びを通して科学を学び、後には命の大切さや潜む危険性は勿論のこと、自然や郷土を思う心が身についてきました。遊びは科学に結びつきます。

3.アユ友釣の楽しみ
数ある釣の中でも異色なのがアユの友釣です。餌や疑似餌は必要ありません。アユは自分のナワバリをやくざの様に身をもって守ります。侵入者には体当たりをクラワセ追い払います。これがアダとなり“友釣”が生まれたのです。実際には“敵釣”ですが、日本人は友釣という美しい言葉を与えました。清流を守るに相応しい表現です。
生きた囮アユに隠し針を付け、できるだけ自然に泳がせ、野アユを誘います。それには、野アユのナワバリを確実に見つけ、技術を駆使した駆引きが大事なことは判っています。でも60年アユ釣を経験しても、結論がありません。毎回新しいことを経験します。水辺で遊ぶ子どもの気持ちと一緒です。そこにアユの友釣りの魔性があるのです。
ところで、私の所属する「日本友釣同好会」は、昭和25年(1950年)に設立され70年になろうとしています。佐藤垢石という釣界先達のお声がかりで出発したのです。垢石先生は、「アユは北海道から九州まで住んでいる。友釣を志す者は誰もが全国各地のアユと馴染みたいと念願している。全国の同士が連携して各地を釣り歩き、土地々々の釣り人と膝を交えて山河を語り、風物を讃へ、共にアユと遊ぼう」と呼びかけられ、友釣が心底好きな人たちが集まって出発したのです。
同好の士は長年アユと遊んできました。時には、地元の人に邪険にされたこともありました。何故ならアユは職漁師のテリトリーだったのです。そこに遊漁者が入り込むのですから、それこそアユのナワバリ闘争と同じようなことがあったのです。それでもアユ釣りを嫌いになる人はいませんでした。美味しいと言われ、釣れたときの引き味がすこぶる良い黄色いアユや青いアユを釣った思い出は鮮明に残っています。釣果は釣の魅力の原点であることは間違いありません。でも、それだけではありません。それ以上にアユの住む川が好きだからです。垢石先生の言われる“山河や風物”が好きなのです。
同好会が出発したとき、私は未だ少年時代でした。山河や風物がどんな意味を持つかも良く判りませんでした。でも、水辺の遊びであることは共通しています。東京都下の多摩川は、甲州街道日野橋辺りへ良くヤマベ釣りに出かけました。そこで、変った釣り方である友釣をはじめて見たのです。カッコ良かったです。あこがれました。そして社会人となりお給料を貰える身分になって、やっと“友釣”が出来るようになったのです。以来60年の年月が流れました。
先にも記した通り60年近く友釣をやってきて、未だに結論はありません。でも60年の経験は宝だと思っています。例えば、アユのすむ川には必ず石があります。大きい石、小さい石、岩盤もあれば礫もあります。どこにナワバリを持ち、どこで群れるか、どこで寝て、活動時間はいつなのか、また産卵はどこでするのか。アユの好きなコケ類のこと、他の生き物のことなど、最もよく河川環境を知っているのは釣り人だと思っております。この経験と知識を、私は《釣り人の知識ベース》と呼んでいます。
他方、河川環境は、開発と言う名のもとに大きく変わってきました。また、釣り道具や釣法も目まぐるしく変わり発展しています。例えば私が友釣をはじめた頃、竿は7.2m、750g以上ある竹竿でした。中には1kgもあろうかという竿もありました。とても重く、長い時間持つことができないので、腰にあてがったりして使いました。オトリの操縦などとても意のままになりません。それが今では9m、200g程度のカーボン竿というハイテク製品、片手で扱えるようになりました。しかも竿には張りがあり、持っていてブレません。糸といえば、ナイロン0.1号だの、金属で0.05号だのと、70歳すぎの年寄りにはとても扱いにくくなってきましたが、細い糸はオトリに負担をかけずに操ることができます。道具の発達は、釣り人の増加を呼び、一人あたり釣れる魚は年々少なくなってきました。漁協は何とか釣らせようと、ヤタラと放流します。ひどいことには、釣り人の見ている前で「確かに放流しましたよ」と成魚の追加放流を見せびらかす河川もあるのです。それで、すっかりアユの生態が変ってしまいました。救いは、ダムの無い天然アユの遡上する川だと言ってもみても、もうそろそろ限界です。アユの友釣に結論がでない一因は、このようなところにあるのかも知れません。
しかし、釣り人として自然に対する感謝の念と、マナーだけはずっと持ってきました。遊ばせて貰った河川と流域の人々に恩返しをしたいと思っております。何よりも、子ども達が再び水辺を遊びの本拠地とすることを望んでおります。子どもの遊ぶ水辺は汚れません。川で遊んでいれば、ゴミを捨てる大人は居ません。美しい自然と環境を守る思いは、釣り人が一番強いと思っています。そこで私どもは“美しい日本の川と友釣を守る”をキャッチコピーにしています。そして、より良い釣り環境と自然を取り戻すため、今こそ《釣り人の知識ベース》つまり経験と知識を使って欲しいと呼びかけています。


4. 久慈川独特の友釣技法
私の友釣のホームグラウンドは久慈川です。福島県に源を発し、茨城県は日立市と東海村の境を河口として太平洋に注ぎます。
久慈川は、日本釣振興会が平成14年に行った釣り人が選ぶ「天然アユがのぼる100名川」に選定され、文字通り天然アユの遡上が極めて多い川です。平成2年に行われた「河川水辺の国政調査」で、アユの生息数割合が43%で全国一となりました。アユの他に、秋にはサケが遡り、上流域や支流にはヤマメやイワナも生息し、同じように釣りの対象となっています。
久慈川の友釣技法は独特でした。釣竿は、流域に生育する篠竹を用いた独特のもので、超がつくほどの胴調子、穂先の太さは5mm以上もあり、これを中通しのリール竿として使っていました。多摩川で見たものとは大分違っていましたが、釣具屋さんに薦められ、このアユ竿によって私の“友釣”はスタートしました。ヘナヘナの胴調子竿ですから、操作するのがすこぶる難しいのですが、リールでオトリまでの糸を調節しながらピンポイントで狙うことが出来ました。アユが多かったこともありますが、当時は狙い通り一発で掛かったものです。
日本全国何処の川にもアユが棲んでいて、友釣と思しきアユ漁は古くから行われていたと言われています。それにも係わらず、地方や河川によって技法が異なることは、先の佐藤垢石先生の《諸国友釣り自慢》の中にも述されており、とても興味深いものがあります。獲れば商品になるという高い価値がアユにはあったのでしょう。そのため、職漁師の釣技法として秘密にされ、河川毎に発展していったのかも知れません。垢石先生は、伊豆の狩野川漁師の釣法を基本にして全国を歩き、言わばスタンダードな友釣の技法を教え広められました。その結果、職漁師だけでなく全国の一般人が趣味としての友釣を行えるようになったのです。尊敬すべき偉大な先駆者でした。
久慈川独特に発展したこのリール竿による釣り方は、今では何処の河川でも嫌われ、禁止されてしまいました。それだけ効率が良かったのです。その後は久慈川でも、竿も釣り方も新しい方法へと進み、全国共通とでも言える技法で友釣が行われるようになりました。それでも土地の古老たちの中には、素材こそカーボン製になったとはいえ、今でも胴調子のリール竿で釣っている人が結構おります。私どもは地方で友釣発展に寄与した文化の一つと捉え、仲良く一緒に釣ることを心がけています。

5. 釣り人にできること 釣り人と漁協の協働
農林水産省発表の「全国河川におけるアユの総漁獲量」統計データによれば1993年に14,242トンもあったが、年々減少し2003年に1万トンを割り8,420トン、2008年には3,014トン、ここ数年は2,400トン前後で推移するまで減少しています。一方、那珂川と久慈川を有する茨城県のアユ漁獲量は、2003年には久慈川単独で390トンあったのが、ここ数年は両河川合わせても380トン前後と、2分の1程に減少しています。それでも、他県に比べれば減少幅が少なく、ずっと全国ベストスリー内にランクインされていることが救いとなっています。
しかし、その両河川をホームグラウンドとしている釣り人としては「数値以上に減少している」との感情を抱いております。ダムが無く天然遡上が期待できる河川といっても、何か手を打たなければならないとの思いを強くし、釣り人の立場で漁協や関係機関に働きかけを強めているところです。
その活動の一つとして、私の所属する日本友釣同好会は、茨城県内水面水産試験場及び久慈川漁協などが進める天然アユ増産プロジェクト“久慈川のアユ産卵床造成”に加わっています。この事業が立案されたのは2007年で、当初から「釣り人の知識も役立てて欲しい」と参加し、毎年秋の産卵時期に造成作業を行っております。近年は、国から補助を受ける協働組織「久慈川多面的機能活動組織」となり、同好会もその一員として協働しております。
造成作業は毎年10月中旬に、久慈川河口から約30km地点の辰ノ口堰下流近傍を中心に行っています。この場所は、古くからアユの産卵場所として知られ、周年禁漁区域に指定されているところです。しかし近年は、河床の小石が固く締まり表層のみに卵が付着し、増水時には流されるなど影響を受けやすくなっていました。固くしまった河床を掘り起こし、小石層を20cm~25cmまでフカフカにして、卵をこの層で保護しようというのが作業の狙いです。まず川床を重機で掘り起こし、砂や泥成分を流し綺麗にしたところをジョレンや圧搾エアーで整地します。人力に頼るところもあり結構労力を要します。
毎年、造成作業後の産卵数や孵化率、仔魚の流下数などの調査も進められ、その成果は順次発表され、過去の例では2000~3000平方メートルを造成し、その5日後に700平方メートルの範囲に約3800万粒、さらに15日後に600平方メートルの範囲に約9800万粒の産卵が確認されるなど、優に1億粒を超える産卵実績が報告されており、次年の遡上につながる好結果が期待されています。
この他、同好会は6月1日アユ解禁前にホームグラウンド久慈川の清掃作業を恒例行事にしております。
釣り人として又釣り団体として、対象魚の増産と河川環境を守る役割を担えることは大いに評価されて良いものと考えます。釣り人は、大きな声で「釣り人の知識を使うべき」と発信して、貢献しようではありませんか。


角田 恒巳
私たちがこどもの頃、箱めがねやヤスを使って小魚を突いたり、泳いだりと、川は楽しい遊び場でした。成長と共に自然や郷土を愛する心が育まれ、生活の中で水辺が如何に大切なものであるかを知ったものです。水辺によせる思いが高ければ高いほど、美しい自然は保たれます。ここ茨城には久慈川や那珂川のように大きな川もあれば、小さな川も沢山あり、水辺で遊ぶ環境には事欠きません。賑やかに遊ぶ子どもたちが増えることを願っています。

2.水辺は科学がいっぱい
水辺の遊びは科学がいっぱい、いろいろな生き物がいてワクワクします。魚が大好きな子は、釣を一心になって覚えます。釣りでいろいろな魚を捕まえると、魚の名前ばかりでなく習性を覚え、水の流れや水温の関係で釣果が分るようになります。一方、川原や土手には植物がいっぱい、中でも食べられるノビルやスカンポを良く採ったものです。勉強という意識は無くても、楽しい遊びを通して科学を学び、後には命の大切さや潜む危険性は勿論のこと、自然や郷土を思う心が身についてきました。遊びは科学に結びつきます。

3.アユ友釣の楽しみ
数ある釣の中でも異色なのがアユの友釣です。餌や疑似餌は必要ありません。アユは自分のナワバリをやくざの様に身をもって守ります。侵入者には体当たりをクラワセ追い払います。これがアダとなり“友釣”が生まれたのです。実際には“敵釣”ですが、日本人は友釣という美しい言葉を与えました。清流を守るに相応しい表現です。
生きた囮アユに隠し針を付け、できるだけ自然に泳がせ、野アユを誘います。それには、野アユのナワバリを確実に見つけ、技術を駆使した駆引きが大事なことは判っています。でも60年アユ釣を経験しても、結論がありません。毎回新しいことを経験します。水辺で遊ぶ子どもの気持ちと一緒です。そこにアユの友釣りの魔性があるのです。
ところで、私の所属する「日本友釣同好会」は、昭和25年(1950年)に設立され70年になろうとしています。佐藤垢石という釣界先達のお声がかりで出発したのです。垢石先生は、「アユは北海道から九州まで住んでいる。友釣を志す者は誰もが全国各地のアユと馴染みたいと念願している。全国の同士が連携して各地を釣り歩き、土地々々の釣り人と膝を交えて山河を語り、風物を讃へ、共にアユと遊ぼう」と呼びかけられ、友釣が心底好きな人たちが集まって出発したのです。
同好の士は長年アユと遊んできました。時には、地元の人に邪険にされたこともありました。何故ならアユは職漁師のテリトリーだったのです。そこに遊漁者が入り込むのですから、それこそアユのナワバリ闘争と同じようなことがあったのです。それでもアユ釣りを嫌いになる人はいませんでした。美味しいと言われ、釣れたときの引き味がすこぶる良い黄色いアユや青いアユを釣った思い出は鮮明に残っています。釣果は釣の魅力の原点であることは間違いありません。でも、それだけではありません。それ以上にアユの住む川が好きだからです。垢石先生の言われる“山河や風物”が好きなのです。
同好会が出発したとき、私は未だ少年時代でした。山河や風物がどんな意味を持つかも良く判りませんでした。でも、水辺の遊びであることは共通しています。東京都下の多摩川は、甲州街道日野橋辺りへ良くヤマベ釣りに出かけました。そこで、変った釣り方である友釣をはじめて見たのです。カッコ良かったです。あこがれました。そして社会人となりお給料を貰える身分になって、やっと“友釣”が出来るようになったのです。以来60年の年月が流れました。
先にも記した通り60年近く友釣をやってきて、未だに結論はありません。でも60年の経験は宝だと思っています。例えば、アユのすむ川には必ず石があります。大きい石、小さい石、岩盤もあれば礫もあります。どこにナワバリを持ち、どこで群れるか、どこで寝て、活動時間はいつなのか、また産卵はどこでするのか。アユの好きなコケ類のこと、他の生き物のことなど、最もよく河川環境を知っているのは釣り人だと思っております。この経験と知識を、私は《釣り人の知識ベース》と呼んでいます。
他方、河川環境は、開発と言う名のもとに大きく変わってきました。また、釣り道具や釣法も目まぐるしく変わり発展しています。例えば私が友釣をはじめた頃、竿は7.2m、750g以上ある竹竿でした。中には1kgもあろうかという竿もありました。とても重く、長い時間持つことができないので、腰にあてがったりして使いました。オトリの操縦などとても意のままになりません。それが今では9m、200g程度のカーボン竿というハイテク製品、片手で扱えるようになりました。しかも竿には張りがあり、持っていてブレません。糸といえば、ナイロン0.1号だの、金属で0.05号だのと、70歳すぎの年寄りにはとても扱いにくくなってきましたが、細い糸はオトリに負担をかけずに操ることができます。道具の発達は、釣り人の増加を呼び、一人あたり釣れる魚は年々少なくなってきました。漁協は何とか釣らせようと、ヤタラと放流します。ひどいことには、釣り人の見ている前で「確かに放流しましたよ」と成魚の追加放流を見せびらかす河川もあるのです。それで、すっかりアユの生態が変ってしまいました。救いは、ダムの無い天然アユの遡上する川だと言ってもみても、もうそろそろ限界です。アユの友釣に結論がでない一因は、このようなところにあるのかも知れません。
しかし、釣り人として自然に対する感謝の念と、マナーだけはずっと持ってきました。遊ばせて貰った河川と流域の人々に恩返しをしたいと思っております。何よりも、子ども達が再び水辺を遊びの本拠地とすることを望んでおります。子どもの遊ぶ水辺は汚れません。川で遊んでいれば、ゴミを捨てる大人は居ません。美しい自然と環境を守る思いは、釣り人が一番強いと思っています。そこで私どもは“美しい日本の川と友釣を守る”をキャッチコピーにしています。そして、より良い釣り環境と自然を取り戻すため、今こそ《釣り人の知識ベース》つまり経験と知識を使って欲しいと呼びかけています。


4. 久慈川独特の友釣技法
私の友釣のホームグラウンドは久慈川です。福島県に源を発し、茨城県は日立市と東海村の境を河口として太平洋に注ぎます。
久慈川は、日本釣振興会が平成14年に行った釣り人が選ぶ「天然アユがのぼる100名川」に選定され、文字通り天然アユの遡上が極めて多い川です。平成2年に行われた「河川水辺の国政調査」で、アユの生息数割合が43%で全国一となりました。アユの他に、秋にはサケが遡り、上流域や支流にはヤマメやイワナも生息し、同じように釣りの対象となっています。
久慈川の友釣技法は独特でした。釣竿は、流域に生育する篠竹を用いた独特のもので、超がつくほどの胴調子、穂先の太さは5mm以上もあり、これを中通しのリール竿として使っていました。多摩川で見たものとは大分違っていましたが、釣具屋さんに薦められ、このアユ竿によって私の“友釣”はスタートしました。ヘナヘナの胴調子竿ですから、操作するのがすこぶる難しいのですが、リールでオトリまでの糸を調節しながらピンポイントで狙うことが出来ました。アユが多かったこともありますが、当時は狙い通り一発で掛かったものです。
日本全国何処の川にもアユが棲んでいて、友釣と思しきアユ漁は古くから行われていたと言われています。それにも係わらず、地方や河川によって技法が異なることは、先の佐藤垢石先生の《諸国友釣り自慢》の中にも述されており、とても興味深いものがあります。獲れば商品になるという高い価値がアユにはあったのでしょう。そのため、職漁師の釣技法として秘密にされ、河川毎に発展していったのかも知れません。垢石先生は、伊豆の狩野川漁師の釣法を基本にして全国を歩き、言わばスタンダードな友釣の技法を教え広められました。その結果、職漁師だけでなく全国の一般人が趣味としての友釣を行えるようになったのです。尊敬すべき偉大な先駆者でした。
久慈川独特に発展したこのリール竿による釣り方は、今では何処の河川でも嫌われ、禁止されてしまいました。それだけ効率が良かったのです。その後は久慈川でも、竿も釣り方も新しい方法へと進み、全国共通とでも言える技法で友釣が行われるようになりました。それでも土地の古老たちの中には、素材こそカーボン製になったとはいえ、今でも胴調子のリール竿で釣っている人が結構おります。私どもは地方で友釣発展に寄与した文化の一つと捉え、仲良く一緒に釣ることを心がけています。

5. 釣り人にできること 釣り人と漁協の協働
農林水産省発表の「全国河川におけるアユの総漁獲量」統計データによれば1993年に14,242トンもあったが、年々減少し2003年に1万トンを割り8,420トン、2008年には3,014トン、ここ数年は2,400トン前後で推移するまで減少しています。一方、那珂川と久慈川を有する茨城県のアユ漁獲量は、2003年には久慈川単独で390トンあったのが、ここ数年は両河川合わせても380トン前後と、2分の1程に減少しています。それでも、他県に比べれば減少幅が少なく、ずっと全国ベストスリー内にランクインされていることが救いとなっています。
しかし、その両河川をホームグラウンドとしている釣り人としては「数値以上に減少している」との感情を抱いております。ダムが無く天然遡上が期待できる河川といっても、何か手を打たなければならないとの思いを強くし、釣り人の立場で漁協や関係機関に働きかけを強めているところです。
その活動の一つとして、私の所属する日本友釣同好会は、茨城県内水面水産試験場及び久慈川漁協などが進める天然アユ増産プロジェクト“久慈川のアユ産卵床造成”に加わっています。この事業が立案されたのは2007年で、当初から「釣り人の知識も役立てて欲しい」と参加し、毎年秋の産卵時期に造成作業を行っております。近年は、国から補助を受ける協働組織「久慈川多面的機能活動組織」となり、同好会もその一員として協働しております。
造成作業は毎年10月中旬に、久慈川河口から約30km地点の辰ノ口堰下流近傍を中心に行っています。この場所は、古くからアユの産卵場所として知られ、周年禁漁区域に指定されているところです。しかし近年は、河床の小石が固く締まり表層のみに卵が付着し、増水時には流されるなど影響を受けやすくなっていました。固くしまった河床を掘り起こし、小石層を20cm~25cmまでフカフカにして、卵をこの層で保護しようというのが作業の狙いです。まず川床を重機で掘り起こし、砂や泥成分を流し綺麗にしたところをジョレンや圧搾エアーで整地します。人力に頼るところもあり結構労力を要します。
毎年、造成作業後の産卵数や孵化率、仔魚の流下数などの調査も進められ、その成果は順次発表され、過去の例では2000~3000平方メートルを造成し、その5日後に700平方メートルの範囲に約3800万粒、さらに15日後に600平方メートルの範囲に約9800万粒の産卵が確認されるなど、優に1億粒を超える産卵実績が報告されており、次年の遡上につながる好結果が期待されています。
この他、同好会は6月1日アユ解禁前にホームグラウンド久慈川の清掃作業を恒例行事にしております。
釣り人として又釣り団体として、対象魚の増産と河川環境を守る役割を担えることは大いに評価されて良いものと考えます。釣り人は、大きな声で「釣り人の知識を使うべき」と発信して、貢献しようではありませんか。


角田 恒巳
久慈川アユ産卵床造成の協働(2017年)
全国河川におけるアユの総漁獲量は、農林水産省発表の統計データによれば1993年に14、242トンもあったが、年々減少し2003年に1万トンを割り8、420トン、2008年には3、014トン、ここ数年は2、400トン前後で推移するまで減少しています。一方、那珂川と久慈川を有する茨城県のアユ漁獲量は、2003年には久慈川単独で390トンあったのが、ここ数年は両河川合わせても380トン前後と、2分の1程に減少しています。それでも、他県に比べれば減少幅が少なく、ずっと全国ベストスリー内にランクインされていることが救いとなっています。
しかし、その両河川をホームグラウンドとしている釣り人としては「数値以上に減少している」との感情を抱いております。ダムが無く天然遡上が期待できる河川といっても、何か手を打たなければならないとの思いを強くし、釣り人の立場で漁協や関係機関に働きかけを強めているところです。

その活動の一つとして、私の所属する日本友釣同好会では日立支部が中心となり、茨城県内水面水産試験場及び久慈川漁協などが進める天然アユ増産プロジェクト“久慈川のアユ産卵床造成”に加わっています。この事業が立案されたのは2007年で、当初から「釣り人の知識も役立てて欲しい」と参加し、毎年秋の産卵時期に造成作業を行っております。近年は、国から補助を受ける協働組織「久慈川多面的機能活動組織」となり、同好会もその一員として協働しております。
昨年の造成作業は10月16日に行われました。造成作業は、久慈川河口から約30km地点の辰ノ口堰下流近傍を中心に行っています。この場所は、古くからアユの産卵場所として知られ、周年禁漁区域に指定されているところです。しかし近年は、河床の小石が固く締まり表層のみに卵が付着し、増水時には流されるなど影響を受けやすくなっていました。固くしまった河床を掘り起こし、小石の層を20cm~25cmまでフカフカにして、卵をこの層で保護しようというのが作業の狙いです。まず川床を重機で掘り起こし、砂や泥成分を流し綺麗にしたところを鋤簾や圧搾エアーで整地します。人力に頼るところもあり結構な労力を要します。

毎年、造成作業後の産卵数や孵化率、仔魚の流下数などの調査も進められ、その成果は順次発表され、過去の例では2000~3000平方メートルを造成し、その5日後に700平方メートルの範囲に約3800万粒、さらに15日後に600平方メートルの範囲に約9800万粒の産卵が確認されるなど、優に1億粒を超える産卵実績が報告されております。昨年は、幸い大きな出水も無かったことから、今年の遡上につながる好結果が期待されています。
釣り人として又釣り団体として、対象魚の増産と河川環境を守る役割を担えることは大いに評価されて良いものと考えます。釣り人は、大きな声で「釣り人の知識を使うべき」と発信して、貢献しようではありませんか。
(角田恒巳)

しかし、その両河川をホームグラウンドとしている釣り人としては「数値以上に減少している」との感情を抱いております。ダムが無く天然遡上が期待できる河川といっても、何か手を打たなければならないとの思いを強くし、釣り人の立場で漁協や関係機関に働きかけを強めているところです。

その活動の一つとして、私の所属する日本友釣同好会では日立支部が中心となり、茨城県内水面水産試験場及び久慈川漁協などが進める天然アユ増産プロジェクト“久慈川のアユ産卵床造成”に加わっています。この事業が立案されたのは2007年で、当初から「釣り人の知識も役立てて欲しい」と参加し、毎年秋の産卵時期に造成作業を行っております。近年は、国から補助を受ける協働組織「久慈川多面的機能活動組織」となり、同好会もその一員として協働しております。
昨年の造成作業は10月16日に行われました。造成作業は、久慈川河口から約30km地点の辰ノ口堰下流近傍を中心に行っています。この場所は、古くからアユの産卵場所として知られ、周年禁漁区域に指定されているところです。しかし近年は、河床の小石が固く締まり表層のみに卵が付着し、増水時には流されるなど影響を受けやすくなっていました。固くしまった河床を掘り起こし、小石の層を20cm~25cmまでフカフカにして、卵をこの層で保護しようというのが作業の狙いです。まず川床を重機で掘り起こし、砂や泥成分を流し綺麗にしたところを鋤簾や圧搾エアーで整地します。人力に頼るところもあり結構な労力を要します。

毎年、造成作業後の産卵数や孵化率、仔魚の流下数などの調査も進められ、その成果は順次発表され、過去の例では2000~3000平方メートルを造成し、その5日後に700平方メートルの範囲に約3800万粒、さらに15日後に600平方メートルの範囲に約9800万粒の産卵が確認されるなど、優に1億粒を超える産卵実績が報告されております。昨年は、幸い大きな出水も無かったことから、今年の遡上につながる好結果が期待されています。
釣り人として又釣り団体として、対象魚の増産と河川環境を守る役割を担えることは大いに評価されて良いものと考えます。釣り人は、大きな声で「釣り人の知識を使うべき」と発信して、貢献しようではありませんか。
(角田恒巳)
